NGH米国催眠士協会認定セラピスト取得
フォレスト式前世療法認定セラピスト第1号取得
アドラー心理学ELM勇気づけ講座修了
UEプラクティショナー講座修了
心理カウンセラー資格取得
現在、公認心理師を目指し大学にて心理学を専攻中
分析心理学の創始「ユング」の思想に影響を受ける
2023年よりインド占星術(Jyotish)修学中
2019年より前世療法士として活動
2021年より前世療法講座開講
2022年「前世療法の本」出版
2023年現在、850人以上の実績
My Story
私は、変わった幼少時代を過ごしました。
特に今も思い出すことがいくつかあります。
夜の仕事にでかけた母は、昼まで帰らない日もあり、兄たちは不良仲間と出かけ、一人で過ごすことも多かった小1のある夜のことです。
眠くなった私は、半間の押入れから布団を引きずり出し、寝る準備をしていましたが、もう眠くて眠くて。
敷布団を出したところで力尽き、「明日になったら(お兄ちゃんが布団を敷いてくれて)ちゃんと寝ているだろうから、このまま寝てしまおう」と、重い敷布団をかけて寝てしまいました。
目が覚めると私はそのままでした。家族も誰も家にはいません。
そして、味付け海苔を数枚食べ、ランドセルを背負って学校に行きました。
毎日ではなかったと思いますが、大半はこんな生活をしていました。
その後、「お父さん」と呼ぶことになった人と母と3人で住むことになりました。
電話もお風呂もなく、2日に1回の銭湯通い、食事中は二人のタバコでいつも視界は濁っていました。
母は変わらず夜は働きに出て、父は夜飲みに行ってしまうので、7歳になっても夜は一人のことが多く一人静かに寝ていると、ある深夜1時頃、帰宅した父は寝ている私をたたき起こしこう言いました。
「おい、ラーメン作れ」と。
そしていつものようにキャベツと梅干を入れたラーメンを作り、ゴ〇〇リがうろちょろいるちゃぶ台にラーメンを運び、私はまた布団に入りました。
また、夜に急な用事や話がある時は、隣の隣の部屋に住む同級生のSちゃん宅に電話を貸してもらい、母の職場に電話をかけていました。
受話器の奥から聞こえる轟音で派手な音楽。
その音に負けずとこちらも大きな声で伝えるんです。
「こんばんは。早苗の娘ですが母はいますか?」と。
(当時母がよく使用していた源氏名は、「千代子」か「私の名前」でした。)
そうすると、すぐそこにいるSちゃんのお母さんが笑うんです。
「早苗の娘だって」と。本当に嫌な思い出です。
電話を切りお礼を伝えると、真後ろには家族4人がそろったSちゃんの食卓。
やさしいSちゃんのお父さんが言うんです。
「さなえちゃん、グレープフルーツ食べていかないかい?」と。
食べたことのない流行りのフルーツと、見たことのないスプーン。
断ることもできず、ひとりポツンと食卓に混ざりいただきましたが、汁を飛ばすしこぼす私は、またSちゃんのお母さんに呆れられます。
足早に数歩先の自分の部屋に戻り、ひとり夕食を食べる…。
よく泣かずに過ごしてきたな…と自分でも思います。
ここにはとてもとても書けませんが…(今なら〇〇虐待と名のつくこと)
さらに父からは心身ともに、傷つくことも成長させられることもありました。
家出した兄たちは、15歳くらいのときから線路脇の胸の高さもある草の中で生活していました。
シンナーを吸い、顔つきもしゃべることもおかしくなった彼らが、私はとても怖かった。
そして、弱い人間だなと思っていました。
初めて兄の運動会を見たのは、少年院の中でした。
そして、誕生日カードは刑務所宛でした。
時々会う兄と一緒の時は、財布を盗られないように絶対に身につけておけと母に言われました。
私が独立した後、毎月母がかけてくる電話は「さなえ、元気?」と「それでね、あの、お金貸してくれる?」でした。
成人式も終えていない私は、兄や母のために数百万円を手渡しました。
もちろんそのお金は今も返ってはきません。
その他にも簡単に一冊本が書けるくらいの出来事がありました。
学校の友達は少しいましたが、心を開くことはできませんでした。
今の私を知っている人は驚いてしまうと思うので、詳しいことは書けませんが、とにかく心身ともに不衛生で普通ではない幼少時代でした。
18歳で独立した私は、とても堅実でした。
自炊はもちろん、仕事と資格取得の勉強、実家への仕送りをしながら一人で暮らしていました。
けれど、社会生活を送っていく内に自分自身と向き合う時間ができ、
自分はどうして人の気持ちがわからないのか?
なぜ、理由もなく悶々としたり、泣き出したり、感情をコントロールできないのか?
私はどうなりたいのか?
私は一体何のために生きているのか?
私は一体誰なのか?
と毎晩ノートに書き綴り、自問自答を繰り返していました。
社会に出て、周囲の人と比べる事で、私の過ごした環境がおかしかったのかも?と気づかされることがたくさんあり(不健全な劣等感)、もしかして、幼少時代の環境が18歳になっても、堅実に生きている私に影響を与えているのかもしれない、とある時気がつきました。
その後、未来のパートナーとなる彼ができ、たくさんの幸せと常識を教えてもらいました。
それでも突然泣き出したり、怒り出したりと情緒不安定になる私を、彼はどうしていいかわからないまま、ただずっと一緒にいてくれました。
彼は何時間も意味の分からない私の話を聞き、2時間だけ寝て会社に行くような日もありました。
私は自分の履歴を塗り替えなくては、このまま彼に迷惑をかけることになる。
過去に縛られたくない。私は自身と自信を取り戻したい。
そう思い、結婚後、独身時代のお金で単身1年間のワーキングホリデーに出かけました。
それは自分自身でしっかりと立ち、自信をつけるためのものでした。
英語もしゃべれない私が、外国で働き生活をした経験はとても大きな自信を与えてくれました。
その後も、数か月アジアへ一人旅にでかけ、環境に負けず強く生きている人々を見て、さらに自分のお尻を叩きました。
帰国後は、「よく旦那さんが許してくれたね」「お金も出してもらったの?」「旦那さんご飯はどうしてたの?」と、そんな言葉をよく掛けられました。
誰も「私が外国でどんな生活をしてきたか?」「なぜ行くことにしたのか?」などには興味がないことに悲しくなりましたが、主人への感謝の気持ちと、こんなに理解のある人が私をパートナーとして選んでくれたことでさらに自信がつき、私は孤独で惨めだった幼少時代の履歴を、自らの力で塗り替えることが出来たのでした。
(それでも子育て中は、半狂乱…鬱状態もありましたが)…
それからは、自分のしたい人生を送ってきました。
趣味だった手づくりを仕事にし、ニット講師や子供の手芸教室を運営。
何か販売してもすぐ完売し、教室の生徒さんもいつも賑わっていて、とても幸せでした。
誰に何を言われても、その人がどう思おうと、それはその人の自由。
私はその人の世界に住んでいるわけではないから、
私は私が思った通りに生きていくんだ、と好きなことを懸命に選択してきました。
そしてこのままニット講師や子供たちに手芸を教えながら、作品を提案し作り続けていくのだろうと思っていたのですが、2017年になると、「私は他にやらなきゃいけないことがあるんじゃ?」と心がざわめきだしました。
今までずっとアウトプットばかりしてきたから、何かインプットしたい。
モノづくりの何かなのか?それとも他の何かなのか?
と悶々としていたある日、生徒さんから「数秘」の話を聞き、とても興味のわいた私は、すぐに数秘の講座を受講しました。
そして、生徒さんや友達の読み解きを趣味でしていく内に、数秘の素晴らしさに気づくと共に、何か物足りなくなってきました。
そこで、人生2回目となる「スピリチュアルカウンセリング」というものに行ってみました。
スピリチュアル色の強いものに難色を示すタイプで、占い(数秘は統計学)に興味もなく、手相さえ見てもらったことがない私が、です。
よっぽど切羽詰まっていたのでしょう。
そこで、「こっち側にきたらどうですか?」と言われました。
元々霊能力もあるみたいですし、と。
何でもいいのでインプットしたかった私は、すぐにその講座を受講しました。
けれど、どうしても心がざわつくのです。
「違うよ、これじゃないよ、違うよ」って。
(元々スピリチュアルを怪しいものだと思っていました)
そしてそこを6か月ほどでやめ、どうしたもんか?
と、何かのヒントを見つけたくて、Amazonキンドルで本をひたすら読んでいるときに、
現在の私のお師匠さんとなる方の本
「人生の法則:3,000人の前世療法から明らかになった真実」を読み、本物に出会えた!と魂が揺さぶられ、前世療法士となり活動を始めました。
その後、米国催眠士協会認定セラピストを取得し、マイナーなセラピーでありながら大きな流れに巻き込まれたように、年間270人ほどのセラピーをさせていただいております。
たくさんの方のお話しをうかがっている中で、人の「心理」の面をより深めたいと思い、2022年春より大学で心理学を学び始めました。
高卒という学歴コンプレックスをずっと持っていましたが、48歳で30年遅れの大学1年生となりました(笑)
心理学を学ぶうちに、この前世療法の科学的な仕組みもわかってきた部分があります。
過去の辛い出来事は、全て今の私の幸せに繋がっている。
惨めな出来事も全て、自分が選んできている。
誰に諭されるのではなく、自らが気づき腹に落とすこと。
誰かに自分を満たしてもらうのではなく、自らが光る力があるのだったと思い出すこと。
そして、誰一人置いてけぼりになることなく、すべての人が自分の光を思う存分放つこと。
私は、それに尽きると思っています。